「道祖神ってな〜に」の講演から(抜粋)

起源と原点
 「道ふさぎ」「道切り」の信仰として登場するのはかなり古く、律令制以前(6・7世紀)を遡る信仰とされています。
 集落が発生すると、「道切り」の信仰がはじまる。集落の入口に信仰の場を設け、旅の無事を祈ることや、外から疫病が入ってこないようお祈りをしました。疫病の犠牲となるのは、年寄りや子供だったので、しばらくすると、将来を担う子供を守るための祈りの場となりました。
 これが道祖神信仰の原点となっています。

信仰の移り変り
 子供を守るシンプルな信仰が、中世を経て江戸時代に入るまでに、仏教や神道、道教などの信仰が取り入れられて、江戸時代に入ると様々なタイプの道祖神信仰が、地域ごとに発展します。
 子供中心の信仰から、集落全体を巻き込む祭りに変化したり、家内安全・夫婦円満などかなり変わってしまったものもあります。
 そして、江戸時代中期後半から石碑が登場し始め、信仰が祭りになり、大人中心の祭りに変化し、子供の出番がなくなった地域もあります。
 一方、子供を守る信仰が残る地域もあります。子供が道祖神のお札を配ことは、本来の信仰を残していますことになりました。
 「どんと焼き」は、年越しの信仰がもとと言われ、道祖神と合体して、1月の祭りとして行われています。

信仰から神様へ
 平安時代から中世の神仏習合期から、道祖神は実態を持つ神様として変容し、「道祖神」という言葉が定着しました。信仰を続けるうえで、拝む対象の神様が必要になりました。
その神が、年越しと合わせて万能の神となるのは、江戸時代中期からで、火が使用されるのは、仏教や神道、道教などの影響を受けたと言われます。

道祖神の石碑
 石造りの道祖神は、「文字碑」「陰陽石」「双体・家族・単身立像」などの形態があります。
国境の峠に立っていますものは古く、村の辻に立てられていますものほど新しいと言われています。村の双体立像は、江戸時代中期以降盛んに立てられ、安曇野が有名ですが、望月にも多く残っています。
 子供の病気や悪いところを治してもらうために、道祖神にお祈りし、牡丹餅を備えたり、体の悪い部分をなでつけたり、さすったりしました。そのため、何が彫られていますか分らないほど滑らかになった碑もあります。
きれいなものは、災厄が少なかったかもしれない。

三大民間信仰の変遷
 古代からの信仰に、「道切り」「風切り」「水切り」があります。病などの悪いことは、「道」「水」「風」から来るものとされ、それを防ぐために成立した。
いずれも、子供を病などから守る信仰として定着し、三大民間信仰と言われています。
 「道切」は、道祖神となり、1月の祭りとして定着ました。
 「水切り」は、祗園祭と混濁・混合して7月の祭りとして定着しています。祇園祭が、川下から上流に向って行われるのは、「水切り」の信仰が取り込まれています。
 「風切り」は、農業の祀りと混濁し、春と秋の祭りに取り込まれ、祭りの際の幟旗を立てることに伝承されています。